創造か進化か?教会にとって、何が問題なのか?

概要

権威

 人間の意見を優先させ、神の御言葉の権威を踏みにじるかどうか-それが問題なのです。ほかの論議も多かれ少なかれ、すべてこの創造/進化の論議に関連しています。まず、創造/進化について神様の御言葉は、人間の見解とはまったく矛盾していることを明確にする必要があるでしょう。次の表は主な対立点を示したものです。
「人間の見解」とは、たいていの教育機関で教えられ、信じられている多数派の意見、つまり、地球(及び人間)の歴史の「定説」を指します。

「神様の御言葉によると」はどういうことででしょうか。創世記1-11章に関しては、いろいろと異なった解釈の仕方があるでしょう。ここでは以下の判断基準を用いて、これを明らかにしました。


最良の入手可能な訳書を用いて、原義、率直で自然、そして明白な本文の意味によって判断する。

原語のヘブライ語の意味は、言語学者の圧倒的な意見の一致によって判断する。ここで、神学者に頼っているのではないことに注意してください。神学者は、通説に原文を「調和」させようと、いろいろ試みているかもしれないのです。オックスフォード大学のジェームス・バー教授は、世界クラスの大学のヘブライ語の教授は、皆、創世記1-11章の作者の意図したところは、単純明解に読んで分かる通りであると認めている、と記しています。つまり、地球全体をおおった洪水、通常の六日間、人はすべて実在の人物、アダムとエバの子孫であるということ、そして系図は、すべての始まりから年代順に記されているものとして、文字通りに理解されるべきものなのです。

創世記の初めの章は、率直に理解すべきであるということは、新約聖書によっても明らかに支持されています。聖書の世界観以外の通説を顧みず、聖書のみを判断基準とした宗教改革後の解釈は常に尊敬されてきました。ここでも同じく、聖書のみを判断基準としてまず第一に用います。

おもな矛盾点(全部で20以上)
(「神的進化論」やそれから派生した主な解釈にも当てはまることに留意。)
問題点 神様の御言葉によると 人間の見解によると
出現の順序 地球のあとに太陽、
果樹のあとに魚 太陽のあとに地球
魚のあとに果樹
最初の男性 要素(ちり)から直接、形造られた 前に存在していた生命より生まれた
最初の女性 男性の体より 前人類の雌より生まれた
創造にかかった時間 すべて六日間で創造された 非常に長い時間にわたり、すべてのものが現われた
罪の裁きであるノアの洪水 地球全体をおおった 地球全体をおおった洪水はない
死、暴力、苦しみ、(人間と動物の)流血 アダム以降のみ
反抗の結果 アダムよりずっと前
不適なものの死滅と遺伝子プール
人間の堕落と呪い 被造物すべてに影響する 人類より何十億年も前から、すでに「滅びに束縛され、うめいていた」(ローマ8章)


したがってクリスチャンは次の選択に迫られています。-

世に普及している世界観を捨てる。

聖書を信じるのをやめる。

調和させようと試みる。

実際には、(2)と (3)が混合しているものをよく目にします。そのため、聖書には正しいこともあるが、間違っているところもあると多くの人が主張するので、以下の点が議論されます。

聖書の無謬性
無謬性がいかに重要であるか、多くが書かれていますが、広くは自明です。わかりやすく言えば、もし聖書に正しい部分と、間違った部分があるとするなら、何が正しくて、何が間違っているか、誰が判断できるのでしょうか?神様、キリスト教、またはイエスについて、私たちは何か確実に知っているでしょうか?「神は愛である」というのも間違いかもしれないのです。
人為的に、真実を「宗教的」と「科学的」とに分けようとして、「A」は「非A」でありえない、という根本的な論理法に反することがよくあります。イエスは死から肉体的に復活したか、しなかったかのどちらかです。流血はアダム以前の世に存在したか、しなかったのかのどちらかです。キリストは人間の歴史舞台に、幽霊のような実体のないものとして現われるではありません。アダムから始まり、長く続く子孫の一人として、注意深く整えられた歴史の枠組みの中に現われるのです。キリスト教が信頼できるものならば、シェーファーの言うように、「歴史や宇宙」についても聖書は事実と一致するはずです。わたしが地上のことを話しても、信じないとすれば、天上のことを話したとて、どうして信じるだろう、とイエスはおっしゃいました。

真の聖書を信じるからといって、聖書が科学の教科書であるというのではありません-真の啓示とはすべてを網羅する啓示、または細部にまでいたる啓示を意味するのではありません。


神様の本性
ここでは「ある神」が進化を用いて創造することができたかを問題にするのではなく、聖書、そしてイエス・キリストを通して、御自身を示された神様が、進化によって創造なさったか、また創造することができたかということを問題としています。

神様の善性--罪が世に入る前、長い年月に渡って、神様は創造のために、強きものが弱きものを消し去る死と苦闘を用いることができたでしょうか?神様はそのような、血塗られた、暴力と病に支配されたプロセスが完成するのを「非常によかった」とおっしゃるでしょうか?

神様の真性--もし神様が進化によって創造されたなら、御言葉を読むほとんど全ての者に、まったく正反対の印象を与え、迷わせたりするでしょうか?

神様が奇跡を行う力と知能。創世記の創造を否定し、さらに福音書の奇跡も否定することがよくあるのは、偶然ではありません。ゴールに到るまで何百万年にも渡って、いろいろと試み、過ちを犯し、多くの行き止まりにぶち当たり、手探りで道を歩むという「プロセス」を用いなければならない神様が、瞬時に長いこと死んでいた者を蘇らせ、何千ものパンと魚を「無」から造り出し、重力に逆らって水の上を歩くような、自然の法則に反する力を持っているとは思えないでしょう。

聖書の全体的構造
「よい」世界は、アダムの罪によって傷つけられ、呪いのもとにうめいていますが、いつか、罪も死もない楽園に再建されます。この創造/堕落/救済の構造はヘブライ語やギリシャ語を曲解したものではなく、旧約、新約聖書、両方を通して、細かく組み立てられていることです。以上から次のことがわかるでしょう。

福音の論理的根拠
なぜ十字架が必要なのか、その理由は、堕落の際に述べられています。アダムによって、最初に死が訪れ、次に死からの復活が来るのです。アダムが罪と死に落ちなかったら、なぜキリストが死ななければならないのでしょう?神様と人間の間に大きな隔たりをつくる原因となった史実がなかったならば、なぜ贖いの血が必要なのでしょうか?福音を宣べることと世間に広まっている世界観を述べることには、このような論理的矛盾があり、以下に示されているような進化論的な考え方によって、問題が生じるのです。

福音伝道
「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死の法則から、私を解放してくださった。」美しい言葉です。しかし「常に死は存在し(それゆえ、死は罪の報酬ではありえない)、人間は堕落したのではなく類人猿から生じたもので、出エジプト記 20:11(六日間ですべてのものが造られた)のように、律法には明らかに神話的な記述が含まれている。罪深い行動があるのは動物が祖先だからだ。そしてこのような言葉を含む聖書が無謬だとはどうしても考えられない。」と信じて育ってきた文化に、この言葉はいったいなんの意味があるでしょうか?

弁証
ペトロは私たちに、いつでも「望みを持つことのできる理由」を伝えられるよう、つまり、信仰を弁護できるよう、強く勧めています。聖書では創世記がもっとも攻撃される部分です。起源に関する本として、創世記には、直接的なものであれ、間接的なものであれ、すべてのキリスト教教義の構造基盤となるものが含まれています。この論理の基盤、土台を破壊すると、キリスト教は構造的にひどく弱まってしまいます。
進化は、まさに、神様の存在を否定するのです。被造物のデザインを見れば、神様が存在することは歴然としていて、誰にも弁解の余地がない、とパウロは言っています。しかし現実には、デザインを解釈するのにデザイナーは必ずしも必要でない、と信じるよう学生たちは育てられます。神的進化論者は、進化論が本質的に無神論であることを否定します。しかし、すべてをそれ自身のプロセスと特性という観点から解釈しようとして、すべての進化論が生まれたのです。つまり、進化論は、創造された秩序に、超越した神様の超自然的な介在は必要ないとして、すべてを解釈しようとするのです。


礼拝
黙示録には、神様は栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方であると書かれています。---なぜなら、神様はすべてを創造されたからです。パウロは造り主ではなく、被造物を拝んだ者を非難しています。進化論的に一貫して考えた場合、創造の栄光を受けるのは「自然」(被造物)なのです。

社会と倫理
罪は人間の抱える問題の根源です。しかし、西洋社会においては、神様の御言葉が絶対であることを拒否することが、進化によって科学的に正当化されてしまいました。その最も顕著な例は、進化論的な考えを堅持し、公に認めて適用したヒットラー支配下のドイツです。(宗教裁判や十字軍の残虐行為は、キリスト教社会のなかで起こりましたが、これとは対照的に、彼らの世界観は進化論的なものではありませんでした。)戦前の西洋の科学者の多くは、知能が遅れていて遺伝的に病気である人々を除去することを「科学的に啓蒙されている」として賞賛しました。ますます増え続ける不法(自分は自分、なんの規制も受けない);堕胎(私たちはいずれにせよ、ただの動物だ);結婚の破綻(結婚と離婚についてのイエスの教えは、いつでも創世記の歴史的原則に戻りました)、そして今までにないほどにオープンになっている同性愛行動は、反聖書の世界観のもとに若者を育てるこの社会が生み出したものの一部に過ぎません。

聖書の引用文は新改訳聖書より。日本聖書刊行会の承認済み。
Creation Magazine より抜粋

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